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氷川神社の御祭神『素盞嗚尊(スサノヲノミコト)』は我が国土をはじめ数々の神様をお生みになった伊邪那岐・伊邪那美命の御子神であり、伊勢の神宮(内宮)の御祭神『天照大御神』の弟神であられます。

大神は気性の激しい直情径行の御性格で、云わば恐ろしい神様として崇められている様に、随分乱暴なところもございましたが、艱難辛苦をなされて遂に清浄な心境に到達された神様であることから、罪穢を祓い清める神様、すがすがしさそのものを表す神様として信仰されています。

多くの篤行を積み重ね、自ら犯された罪穢を身を以って贖罪されましたが、中でも水の精霊である八岐大蛇を退治された話は有名で、それによって水を司る神、即ち治水の神様として崇められ、また奇稲田姫との御成婚によって稲の豊穣の神様、農業の守り神としても祀られています。

この他、御子神の五十猛神と共に新羅国牛頭山に在り、植樹につとめられたことから山林の神として崇敬されている一方、御みずからの赤心をかけて御姉神 天照大御神と御誓約されたという古い言い伝えより、誓いの神様として商家から篤い信仰を集めています。

更に日本で初めて『八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣作るその八重垣を』の和歌を作られた神として、和歌の親神とも仰がれています。

この様に、商売の神、お祓いの神、殖産の神として知られているところから、近年では年間を通じて初宮詣・交通安全・厄除け・家内安全等の御祈願をお受けになられる方が多く、氏子の方々をはじめ多くの崇敬者より崇められています。

御祭神

御由緒

当地は天保14年(1843)代官 江川太郎左衛門の許可により、小山村の原清兵衛光保によって新たに開発された開墾地です。同年6月17日武蔵国南多摩郡上櫟田村(現在の八王子市)の村社氷川神社より御分霊をいただき、入植者の心のより所とされていました。当初は『いづなさま』とも呼ばれ2坪程の小さな祠に祀られていたそうです。

新田開発後の安政3年(1856)7月から8月にかけて検地役人 江川太郎左衛門は手代 津田橘六、恒川左内の2名を派遣し検地鎮守社敷地許可を行いました。これにより当地は『清兵衛新田と称うべし』と言い渡されました。この時両名は石灯籠を奉納され、拝殿向かって右に恒川左内、左に津田橘六のものが据えられました。同じ年この開墾事業を成し遂げた発起人の清兵衛(隠居後改名したため実際には 嘉兵衛)は手水舎の石水盤を寄付しました。この石水盤は拝殿手前左側にあって現在も使用されています。

十数年間に亘る開墾事業に賛同し入植したのは近隣農家の次男三男で、新地を求めて入植した人達でした。明治45年、新田開発当時の入植者の苦労を忘れないために建てられた開墾記念碑の裏面には、その経緯と顕彰の言葉が綴られています。この記念碑の題字は第15代将軍 徳川慶喜公、碑文は幕府に仕えた国学者 前田香雪(夏繁)によるもので、相模原市の有形文化財に登録されています。

御本殿は、相原にあった『外の御前』と呼ばれる建物を毎夜白蛇がその一部を咥えて運ぶのを相原の氏子が見て、これは神意であろうと言うので、清兵衛新田に譲ったものであると伝承されています。

 

​末社 福徳稲荷大神

 

弘化2年(1846)頃、今で云う相模原駅の南側辺りで狐に取り憑かれた人が多く出ました。困り果てた人々は高名な祈祷師を呼んで祈祷を頼んだところ、祈祷師は七日七夜お祈りをして狐を青い玉に変えて土甕の中に供物と共に封じ込め、境内地に穴を掘って埋め、更にその上に樅(モミ)の木を植え供養したそうです。

境内の一角に竹で囲われた大きな切り株が残っており、『狐火の塚』として大切に守られています。

昭和27年に八王子のある崇敬者の枕元にこの狐が立ち、神意を得たと感じたこの方のご厚意により祠が建てられたのが始まりです。その後、昭和54年と平成7年に立て替えが行われ現在に至ります。

毎年2月11日の建国記念日に合わせて初午祭が執り行われ、当日は氏子有志らによる奉納演芸・福引きなどが行われ、一日中賑わいを見せています。

※令和4年5月24日から7月下旬にかけて行われた補修工事は無事完了し、去る7月25日の夕刻、御神霊を本殿にお遷しする遷座祭を執り行いました。

今回は、内陣の漆喰・階下の縁台周り・防蟻工事等を行い、湿気や害虫に対して耐久性が向上しました。

期間中お参りの皆さまには御不便をお掛け致しました。

また、本工事に対して心温まる御寄付を賜りました皆さまには、改めて深く感謝申し上げます。

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​安産子育地蔵尊

子供の成長を願って開拓当時の人々が、弘化3年(1847)に建立したと伝えられています。爾来、南橋本の郵便局の近くにあった大きな桜の木の根元に祀られていました。横浜と津久井を結ぶ横浜街道の側だったそうです。

入植者の一人『原利兵衛』が願主となって寄進した地蔵尊で、台座の石には『隠岐国阿穂無地蔵尊』(おきのくに あごなしじぞうそん)口中の病にて難儀の折に願掛けすれば、たちまち除け給う事疑いなし…とある。

あるとき、子供が出来ない事に悩んでいた小山村のお百姓さんが願を掛けた

ところ、無事子供を授かりすくすくと成長したので、いつの頃からか子育地蔵

と呼ばれるようになりました。当神社の境内には昭和20年ごろ移築されました。

古いお地蔵さんと並んで新しいお地蔵さんが祀られているのは、市内にすむ女性が祈願したところ結婚七年目にして子供が生まれたので、そのお礼として奉納されました。お子様の無病息災・安産を願う人々のお参りが絶えません。

秋葉大権現・榛名大権現石燈

境内の一角に石碑が祀られています。

秋葉権現は火防の神様として、榛名権現は農業や水の神様としてこの地の人々に信仰されていたようで、養蚕が盛んな頃はよい繭がとれるように灯明をあげたり、夏になると雹が降らないように村人が大勢集まってお祈りしたそうです。

この他に神社創建当時、土地開墾の許可を出した代官江川太郎左衛門の手代で、検地役人を務めた津田橘六と恒川佐内が奉納した石灯籠も並んでいます。

道祖神・庚申塚

道祖神は塞の神とも呼ばれ、村境や峠道などに置かれ旅人や村人を災難・悪病から守る神様として信仰されました。

氷川神社の道祖神は安政3年(1856)の春に建てられ、村境にあって外より入り込む

疫神悪霊から安全を守る神様として崇められました。

また、この道祖神は特に子供を病気から守ると信じられており、願掛けやお礼参りのためにお米を供える風習があったようです。

庚申塚は中国の道教に伝わる信仰からくるものです。人の身体には三尸(さんし)という虫が宿っていて、凡そ二ヶ月に一度巡ってくる庚申(かのえさる)の日に、眠っている宿主の身体を抜け出し天帝に宿主の罪悪を告げるというものです。宿主の行いに依っては天帝の怒りを買い命を縮められるということで、庚申の夜には村人が寄り合い三尸が身体を抜け出さないよう、寝ないで一夜を過ごしたというものです。

砂岩を彫って設けられているため風化が著しく、今はもう朽ち果てそうになっていますが、経緯を知る地元の方々により大切にされています。

※転倒の危険性がありますので、柵の中に入るのはご遠慮願います。

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